熊谷市の概要
熊谷市は、埼玉県の北西部に位置し、全体的に平坦な土地ですが、南部には江南台地及び比企丘陵の高台があります。また市域南側を西から東へ荒川が流れています。古くは江戸時代から、中山道の宿場町として栄えました。
熊谷のあゆみ
熊谷では、約6000年前の縄文時代、人々は東を荒川の支流に接する櫛挽台形地の竪穴住居に住んでおり、籠原裏・三ヶ尻の林遺跡などにその跡が見ることができます。その後、生活領域が広がり、採集や狩猟だけではなく、稲作による生活をしていたことが確認されています。
古墳時代は、鉄器を始めとした農・工具が発達し、遺跡の規模や数は増大していきます。国の重要文化財に指定されている馬形埴輪や武人埴輪を出土した中条古墳群など、市域には多くの遺跡が残されています。
平安時代、背後に大きな水田地帯を有する地には、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)とよばれる神社(奈良神社、田中神社、高城神社)が存在し、農業を基盤に大きく発展しました。中期になると、こうした経済基盤を背景に、各地に武士団が形成されました。
鎌倉時代になる頃、最も活躍した武将は、武蔵七党を形成する横山党から出た中条家長、私市党から出た熊谷直実、久下直光でした。中でも、熊谷直実は現在の市駅前の銅像にもなっており、源平の戦いで活躍したものの、息子と同じ年頃の若い、平敦盛を泣く泣く討ち取った話は現在でも語り継がれています。
文明2年(1470)頃、市域を治めていた成田氏は12代から15代に掛けて忍城を築きましたが、後に豊臣秀吉の小田原征伐に伴って滅ぼされることとなります。
江戸時代に入ると、熊谷は中山道の宿場として栄えます。この辺りの地域は忍藩領や幕府領、旗本領が複雑に入り組んでいて、宿場からは街道が四通八達していましたが、その核に熊谷宿がありました。現在でも街道沿いに、藩の領域を明示した忍領石標や、それぞれの行き先を示した道標が残っています。また、熊谷を訪れた多くの文人墨客の中でも渡辺崋山は、当時の地誌を始め、多くの書画を残しています。
明治時代に入ると、上野・熊谷間の鉄道が開通したことで、熊谷は大きく発展し、以後の流通経済の基礎となりました。
その後、昭和にかけて、市域は立て続けに災害や戦災を被りますが、見事に復興を遂げ、人口15万人を超える、埼玉県北部の主要都市として現在も発展を続けています。
熊谷の名前の由来
熊谷の地名の由来は、
・荒川の氾濫原であったことから「曲谷(くまがや)」から転じたもの
・この地の出身である熊谷次郎直実の父、直貞が周辺を荒らし回っていた熊を退治したことから
など諸説があります。
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熊谷市立図書館
郷土資料展示室 |
| 住所: |
埼玉県熊谷市桜木町2-33-2
[地図を見る] |
| 電話番号: |
048-525-4551 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00 |
| 休館日: |
月曜日、第1金曜日(国民の休日にあたるときは、第2金曜日)、春・秋の特別整理期間、年末・年始(12/28〜1/4) |
| 入館料: |
無料 |
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